ドイツ在住 猫好き書道家 🙀

フォローしてくれたら嬉しい😸

父の命日

妹が塔婆を立ててくれました

2003年に母が他界して以来、
実に20年、一人で暮らし
道教室も一人で続けていた父も
2年半前の夏、ついに介護施設に入りました。

その後、父の認知症は進み、

今朝いただいたばかりの朝食も忘れ、

「まだ何も食べさせてもらってない、腹減った!」
と、いつもこぼしていたようです。


ところが施設の近くに住んでおり、
父の世話をしてくれていた妹が、
面会時に、私の書作品を見せると
認知症とは思えないレベルで
添削の能書きが始まるということでした。
私自身も帰国時に施設の面会所で
父から書の添削を直にもらうこともできました。

父の人生の大半を占めていた書道と
父の周りを取り囲んでいた
家族、書道のお弟子さん、知人は、ドイツ人の私の夫ですら
忘れることはありませんでした。

父がまだ子供のころ
祖父が突然他界し、
今で言う高校生ぐらいの年齢だった頃でしょうか、
父はいわゆる「ボストンバッグ」一つで上京し

何もなかったところから

現在の生活を作り上げました。

きりがないほど様々な苦難を
乗り越えて来たに違いありません。


母が他界して父が独り暮らしになって以来毎年
私は父の確定申告をするために
ちょうどこの時期に、3週間ほど帰国していました。

父は元々頑固な性格でしたが

恐らくすでに早い時期に認知症が始まっており

年を重ねるごとにその度合いは増していったのでしょう。
当時の私には認知症という症状が未知のもので理解できず
今思えば、父のあの時のあの言動は
そのせいだったにもかかわらず
かなり冷たい態度を取ってしまったこともあったなあと

反省できる今となっては父は居らずで、
何とも申し訳ない気持ちでいっぱいになることもしばしばです。


実家の稼業となっていた書道は
私も妹たちも「やらされて」いました。
妹たちはともかく、
私には当時は書道はなんとなくハマるものでした。
我ながら思うに、上手くできたからなのだと思います。

私は父から「書道はお前が継ぐのだ」と言われ続けていました。
これが私には実は重荷で仕方がありませんでした。
「跡継ぎなんて嫌だ~!」が
ドイツに来た理由の一つでもあったぐらいです。




施設に入り、認知症が進み、
以前の頑固さが消え、別人になったというぐらい

かわいくなって、
しかも、人と書のことは忘れていない父。
そんな父が果てしなく愛おしく

父の書はやはり私が繋いでいきたいと
認識するようになりました。

1年前の今日、父は永眠しました。
コロナ禍で家族の面会ができなくなって1年以上経っています。
認知症の父には、なぜに突然
誰も来なくなったのか、理解できなかったことと思います。

父の危篤の知らせを受けてすぐにドイツを出て
かろうじて帰国はできたものの
大勢の人とワイワイやるのが大好きだった父なのに
コロナ禍のため、父の葬儀は家族だけで行われました。

が、私には和やかで返って良かったなと思われました。

一周忌はもっと盛大に行う予定でしたが

コロナ禍は収まるどころかひどくなり、
私の帰国も中止となりました。
そんな中、妹が一人でお寺さんに行き、
お経をあげてもらって
東京からもう一人の妹とドイツから私が

繋いでもらったラインのリモートにて参加という
ミニマリストな形となりました。

不思議なことに今は父の楽しい思い出ばかりが浮かびます。

父が書いた書のお手本を手にし、

この素晴らしい関川龍仙の書道、
もっともっとたくさんの人に知ってもらいたい!と願うばかりです。

応援していただければとっても嬉しいです! ^^。